Steely Danの顔としてはどうしてもDonald Fagenに注目が行きがちだが、彼とはまた別のキャラクターとしてレスペクトを受けてきたWalter Becker。
大学以来の友人としてDonald Fagenが感動的な追悼文を発表しているので冒頭部分を引用しておこう。
Walter Becker was my friend, my writing partner and my bandmate since we met as students at Bard College in 1967.
Steely Dan解散後はロック畑では2組、他人のプロデュースを手がけていて、どちらも個人的に忘れがたいアルバムである。
1980年代にネオアコが盛り上がった時その一部でスティーリー・ダンになりたい症候群みたいなのがあり、その究極としてWalter Beckerにプロデュースを依頼したChina Crisis。
1985年、3rdアルバムにあたる「Flaunt The Imperfection」の「You Did Cut Me」。
チャイクラ自体はエレポップなバンドとしてデビューしていてデビュー時からリアルタイムに聴いていた。この3rdは出てすぐレコード屋で見つけジャケット裏を見たらプロデューサーとしてWalter Beckerの名があって大騒ぎして買って帰った思い出がある。
曲はもろにスティーリー・ダンである。
80年代にはもう1作。リッキー・リー・ジョーンズのこれも大傑作な Flying Cowboy。
1989年の「Flying Cowboy」からのタイトル曲。
これもリアルタイムに聴き込んだアルバムである。ちなみにWalter Beckerはこのアルバムでは本業のベースも弾いている。
これ以外にスティーリー・ダン時代に1枚、解散後に2枚のジャズアルバムのプロデュースをしているようだが音は聴いたことがない。
ベースプレイヤーとしての活動も意外なことにSteely Dan以外では数少ない。
後にAOR系シンガーとして有名になるテレンス・ボイランの1969年の1stアルバムから。
ここにはドナルド・フェインゲンもキーボードプレイヤーとして参加している。
いわばSteely Danになる前の下積み修行時代の仕事。
もう一人アメリカの忘れられたSSW Thomas Jefferson Kayeの1973年のデビューアルバムと翌年の2nd。
1stも2ndもドナルド・フェイゲンの参加はなく、ウォルター・ベッカーは他のウェストコースト系セッション・ミュージシャン(Dean PerksやJeff Baxterなど)と一緒に参加。
この辺りはたぶんプロデューサーがゲイリー・カッツなので、暇していたSteely Danの連中を呼んだのではないだろうか。
ともかく、残された音楽は決して多くないが、Steely Danの各作を始め印象的な仕事ばかり遺してくれたWalter Becker。
多くのミュージシャンに慕われたのがよくわかると思う。
9/10追記
その後、プロデュースはもっと何かあったなぁと思い出すのに務めた結果、2件思い出した。
ノルウェーのエレポップバンドFra Lippo Lippi(フラ・リッポ・リッピ)。
1987年の4thアルバム「Light And Shade」の冒頭の曲 "Angel"
このアルバムもウォルター・ベッカーのプロデュースだがチャイクラの時ほどのマジックは感じられない。
実はこのアルバムもリアルタイムで買ってはいるのだが、1,2回ざっと聴いただけで、その後の30年間、一度も聴き直してない。
チャイクラは時々思い出したように聴き返すのにこの差は何だろうと考えると、やはりチャイナ・クライシスとウォルター・ベッカーでは根っこで共有している黒っぽさ、ハッキリ言うとジャズやブルースの素養が、フラ・リッポ・リッピにはないんだろうなという結論になる。
もう一つがマイケル・フランクス(Michael Franks)の1990年のアルバム「Blue Pacific」。
これはマイケル・フランクスが10年ぶりにトミー・リピューマにプロデュースを依頼したアルバムだが、3曲だけウォルター・ベッカーがプロデュースしている。
"All I Need", "Vinvent's Ear" それと "Crayon Sun (Safe at Home)" の3曲である。